番外編その1
オーブンを開ける時は、幼い頃貰った菓子箱を開ける時のワクワクをいつも思い出す。
期待感に胸を膨らませながら、グリーンのチェック柄のミトンをはめた手で、葉澄誠司はオーブンの扉をそっと開けた。バターとシナモンのいい香りがふわりと広がり、きつね色に焼けたパイが姿を見せる。天板ごと木製の調理用テーブルに取り出し、ラム酒で溶いたあんずジャムを塗れば、網目状に組まれたパイが艶を帯びて輝いた。隙間から見えるりんごもごろっとしていて美味しそうだ。
アップルパイの出来栄えに満足して、誠司は頬をほころばせた。これならきっと、お客さんにも喜んでいただけるに違いない。
誠司は学業の傍ら、放課後の余暇と休日を利用してささやかながら喫茶店を営んでいる。両親が買い付けた海外の紅茶や庭のハーブを利用したハーブティーだけでなく、誠司の作る焼き菓子や軽食も店の売りのひとつだ。菓子は毎日なにかしら新しいものを焼いており、ありがたいことにどれも概ね好評だった。
今回は、どんな顔をして食べてもらえるだろう。楽しみに思いながら、誠司はアップルパイを大皿に乗せて厨房の扉をくぐった。ちょうどお客さんが引けた後だったようで、アルバイトの野々宮葵が二人がけのテーブルを片付けているところだった。彼女はいつも、誠司が焼いたお菓子をとても美味しそうに食べてくれる。今回も至極当たり前に、誠司は葵に声をかけた。
「アオイさん、パイが焼けたよ。すぐ試食する?」
食器を片付け終わった後のテーブルを拭いていた葵は、誠司の言葉にぱっと顔を輝かせたが、すぐに表情を曇らせて気まずそうに視線を逸らしてしまった。
「ごめんなさい、今日は……いいです」
いつもならおやつを与えられた子犬のごとくしっぽを振らん勢いで嬉しそうに駆け寄ってくるのだが、いったいどうしてしまったのか。誠司は驚いて、切り分け用の包丁を落としそうになってしまった。
「どうしたの? もしかして体調でも悪い?」
「それは大丈夫です元気です」
「アップルパイ、嫌いだったっけ?」
「大好きです! 店長の作るお菓子はどれも美味しいです!」
「お昼ご飯食べ過ぎてお腹空いてないとか?」
思い当たる節を尋ねていたら、葵のお腹がきゅう、と可愛らしく鳴った。どうやら満腹でもないらしい。
真っ赤になって顔を伏せてしまった葵に、誠司は笑いながらパイに包丁を入れた。
「今更遠慮することなんてないのに。心配しなくても試食分だから――」
「あの、店長、違うんです、その……」
葵は言いにくそうに口をもごもごさせてたかと思うと、真っ赤な顔をトレイで隠しながら蚊の鳴くような声で告げた。
「……太ったんです」
今度こそ誠司は本当に驚いて、包丁を動かす手を止めた。葵をまじまじと見てしまってから不躾だったと思い視線を逸らす。葵は確かに雑誌に載るモデルのように病的なスレンダーさはないが、健康的な体つきで決して太っているようには見えなかった。それになにより、体重を気にしていたこと自体に驚きが隠せない。いつもいろいろなものをよく食べるから、あまり気にしていないのだと思っていた。
ひとしきり驚いてしまってから、誠司は反省した。葵だって女性なのだから、体重を気にすることもあるだろう。しかし、過度なダイエットは体によくない。この様子だと昼食もロクに食べていないのではないだろうか。
「りんごはビタミンと食物繊維が多くて、美容にとてもいいよ。カロリーも思ってるよりは高くないし」
切り分けたアップルパイを皿に載せ、添えた生クリームにミントを飾り付ける。蒸らしていた紅茶をカップに注ぎ、一緒に葵の前のカウンターに出した。
「アオイさんが太ってるようには見えないし、僕は気にしないけど……空腹のストレスはあまり良くないって聞くよ?」
「……ううー」
「それに僕は、アオイさんがいつも美味しそうに食べてくれるの、とても嬉しいんだけどな」
言いながら、そっと葵の様子を窺う。葵はしばらく葛藤するように呻きながらぷるぷる震えていたが、ポケットからマイフォークを出してカウンターに着いた。
「やっぱり我慢できない! いただきます!」
フォークを入れられたパイがさくりと軽快な音を立てる。ひと切れ口に運んだ葵の頬がふにゃりと緩み、幸せそうな表情になった。
「美味しい~りんご~カスタード~」
次々とアップルパイを平らげていく葵の満たされた笑顔に、誠司はホッとした。ダイエットもいいが、やはり葵には美味しいものを食べて笑っていて欲しい。
「もしも、アオイさんがどうしてもダイエットしたいって言うなら」
「?」
「明日から、カロリー控えめのお菓子を焼くよ。おからクッキーとか」
誠司のささやかな提案に、葵はフォークを持ったまま、嬉しそうにはにかんだ。